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by Norman Yamazaki, DDS. (profile)

February 01, 2011

国風盆栽展に出品した頃の思い出

G.V. BLACK DENTAL OFFICEで園芸療法の

コンセプトを採用し、盆栽とさつきを

始めたのは2001年のことでしたが、

その後、日頃の丹精の結果がどこまで通用するのかと

腕試しのために、

一流の盆栽展への出品をめざしました。

競技盆栽と呼ばれるジャンルにトライしたのです。

競技盆栽には展示会へ出品するための審査があり、

なかなか合格することが難しい展示会の最高峰に

近所の上野で開催される「国風盆栽展」という

展示会があました。

日頃の手入れを入念にし、

展示会用の準備もした結果、

初挑戦で入選することができました。

入選=合格ということです。

この展示会へは、その後、

3年連続で入選したので、

御茶ノ水盆栽クラブのレベルを

日本国民に伝えることができたという

満足感と、出展への準備にかける時間や

御茶ノ水盆栽クラブの面々に指導する時間が、

本業の歯科治療が多忙になり、

なかなかとれなくなったので、

競技盆栽から引退を宣言して現在に至ります。

また、盆栽をしなくなった最大の理由は、

園芸療法をしなくても、もう顎関節症に

伴う精神的な問題を含む不定愁訴は

歯科治療のみで治せる方法を確立できたことも

大きな理由のひとつです。

第一回目の入選の時、緑の日記につぎのように

書いたのでここに掲載します。

*****

February 06, 2004 

国風盆栽展にかける思い

国風盆栽展とは

(日本盆栽教会Websiteより抜粋)

東京府美術館(現在の東京都美術館)で、第1回国風盆栽展が開かれたのは、昭和9年(1934)3月でした。

主催したのは、のちに貴族院議長となる松平頼寿伯爵を初代会長に迎えて設立された国風盆栽会です。

「盆栽は季節を楽しむもの、春秋の開催が好ましい」との彫刻家・朝倉文夫先生の助言により、戦前は春秋2回の開催でした。

国風(こくふう)とは、その国特有の風習、文化(広辞宛)という意で、盆栽を我が国固有の文化、芸術としてとらえ、第1回展以来盆栽展名に用いているのです。

第二次大戦をはさんで3年間、中断を余儀なくされましたが、昭和22年にこの美術館で再開、長きにわたった戦争で打ちひしがれた人々の心を癒し、ようやく平和の戻った安堵感と喜びを伝えたのでした。

昭和40年(1965)、盆栽芸術の向上と普及発展をはかり、日本文化の進展に寄与しようと国風盆栽会を母体とした社団法人日本盆栽協会が、初代会長に吉田茂・元首相を迎えて設立されました。

協会の設立に伴い国風盆栽会は解散し以後、日本盆栽協会が縦承し、日本最古の歴史を有する国風盆栽展の伝統を守っております。

本展は、日本で最もレベルと格調の高い盆栽展として、海外でも広く知られております。

http://www.bonsai-kyokai.or.jp/kokuhuten.htm

私が小学校5年生で盆栽を始めたとき、

一番最初に植えかえをしたのは黒松でした。

地元の園芸店で売られていた

持ち崩された20cmくらいの高さの、

5号の素焼の鉢に植わっていたものです。

関東ローム層特有のマサ風化物単用で

植えられていました。

その松は、私が家を出てアメリカに長くいて、

帰ってきたとき、家の畑の傍らで

3mの巨木になっていました。

当時、私に盆栽を教えてくれたのは父でしたが、

その父はもういません。

今回、国風盆栽展に入選した

黒松と長寿梅について

いろいろ尋ねられるので、

ここで一括してお答えします。

皐月大賞を取った直後の

私の初の展示会への出品が皐月ではなく、

黒松であったことが

さつき愛好家の間に波紋を投げかけていますが、

私の盆栽の原点は黒松であり、

皐月が私の盆栽の99%を占めている

現在においても心のどこかには

スペシャルとして住み着いています。

従って盆栽界の頂点の展示会である

国風盆栽展の初出場には、

私の原点である黒松で出るということは

もう以前から決めていました。

また今回の席のテーマは、

黒松と長寿梅を手にいれた時から

考えていたもので、

私の心を貫く最も大切な

理念を表わしています。

私の父は吉田松陰を師と

仰いで生きていました。

当然その思想は息子である

私にも伝承されています。

私は日本人として生きる。

私は日本人としてだれにも

恥ずかしくないように生きる。

私は日本人として日本を愛して生きる。

私は日本人として日本が

美しく強い国であるように生きる。

私は日本人として天皇陛下に

恥ずかしくないように生きる。

つまり、国風盆栽展に初出場する

私の挨拶代わりの自己紹介の席は、

吉田松陰先生をテーマに展開するのです。

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席銘・今古萩町頓振り町筋

主・黒松

銘・松陰初霜(しょういんはつしも)

銘は私がつけました。

意味は、

私は吉田松陰先生を師としており、

今回の初入選ではそのことだけを

知ってもらいたい

ということです。

私が銘を付けた樹は私が生きる限り、

私と共に生きるので、

この樹はしばらく私と過ごすことになります。

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添え・長寿梅

銘・手のとはぬ雲

銘はやはり私がつけました。

この銘は

手のとはぬ

雲に樗(おうち)の

咲く日かな

という高須久の俳句がベースになっています。

(おうち)というのはせんだんのことです。

俳句には意味の解説はいらない

ということなので、状況だけを説明します。

高須久は萩藩の中級武士の

家柄の娘であったのですが、

養子の夫の死後、

自らの三味線好きから、

門廻りをする芸人と親しくなり、

その芸人が被差別部落民であったため、

幕藩身分制度を犯す大罪として

吉田松陰先生が投獄された

野山獄に送らていたのでした。

高須久の罪状を知った吉田松陰先生は、

藩の連中のしているのは

自由平等を基底とする

人間観への痛罵として、

心底を揺さぶられ、

それが始まりとなりいつしか

高須久との交流がはじまったのです。

この吉田松陰先生の唯一の

ラブストーリーの相手となった

高須久が江戸に護送されることになった

吉田松陰先生に、

餞別の汗ふきを渡し、

読んだ一句をがこれなのです。

従ってこの銘の意味は、

主の黒松(吉田松陰)に

対して添えの長寿梅は

高須久を表している

ということです。

松陰先生、烈死後145年にして

久さんと一緒に過ごせるという事は、

とてもナイスなことだと

松陰学派の末席を汚す

不肖の私は思っています。

席銘の今古萩町頓振り町筋というのは、

松陰先生と久さんのいた

野山獄の現住所です。

野山獄は今はいくつかのの石碑だけが残り

松陰先生と久さんの記憶を伝えています。

以上

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